開 創 弘仁6年(815)弘法大師が42歳の時に四国霊場を開創するために、阿波の国(発心の道場)、土佐の国(修行の道場)、伊予の国(菩提の道場)、讃岐の国(涅槃の道場)を廻り民衆救済を施しながら仏教を広められ、八十八ヶ所の霊場を定められました。
 歴 史 平安時代の「今昔物語」や西行法師の「山家集」に四国霊場巡礼の記述がありますが、これは沙門によるもので八十八ヶ所の記述はありません。八十八ヶ所の記述が落書きなどから見られるのは、室町時代のうようです。当時は主に僧侶の巡礼でしたが、次第に庶民に広がり室町時代後期には定着していたようです。しかし、訪れる人は少なく実際に発展したのは江戸時代のようです。時代による栄枯盛衰は常ですが、八十八ヶ寺にも2つの災難がありました。1つは戦国時代の長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)による四国統一の折り多数の寺院が戦火に遭い焼失しています。再興するまでに多大の年月と寄進を要しています。もしこの件が無ければ四国は国宝の宝庫になっていたかもしれません。もう一つは明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)です。仏教はいろいろな宗教と融合しておりますが、奈良時代に仏教は神道と習合し同体となりました。しかし、明治維新の政府は祭政一致を唱え、明治元年(1868)に神仏分離令を発布し、廃仏毀釈に発展しました。全国の寺院が破壊や仏像・経典・寺宝などの売却により荒廃し廃寺が多数出ました。その後、明治後半に信徒や住職の尽力により徐々に再興されております。現代社会においてはバスやタクシー、バイクによる巡礼が多くなり、観光客も増えております。もちろん歩き遍路の方も多数おられますし、道路標示や遍路道も「四国の道」として維持されており、四国の巡礼に対する風土も生きております。巡礼者は老若男女を問わずいらっしゃいますが、最近は世相を反映して若者が増えているようです。最近では「四国へんろ文化」の世界文化遺産登録の運動も行われています。2000年の四国知事会議では4県による四国遍路文化推進協議会(仮称)の設置を申し合わせており、今後益々拡充されるものと期待しております。
 伝 説 伊予の国の第四十七番八坂寺の近く、荏原に衛門(えもん)三郎という強欲な長者がいました。ある日、門前に托鉢僧が訪れましたが、彼の鉄鉢をとりあげ投げつけました。その僧こそ弘法大師でしたが、その後八人の男の子が次々と亡くなり、三郎は邪見を捨て改心し四国巡拝に旅立ちました。これが四国遍路のはじまりといわれ、三郎は大師に会えぬまま、遂に21回目の巡拝の時、天長8年(831)第十二番札所焼山寺の麓で病に倒れる。その時突然弘法大師が枕元に現れ、一寸八分の石に「衛門三郎」と刻み彼の手に授けると三郎は安心して息を引き取りました。その後、伊予の豪族河野息利に男子が生まれたが、右の手を握ったまま開かないので安養寺の僧の祈願で指を開き、手の中から「衛門三郎」と書かれた石が出てきました。そこでこの石を当山に納め、寺号を安養寺から石手寺に改めました。 第十二番札所焼山寺の麓に杖杉庵があり三郎の墓と慰霊碑があります。
 由 来 八十八の数の由来について定説は無いようですが、幾つかあげてみます。
 1 男の厄年42歳、女の厄年33歳、子供の厄年13歳を合計した
   もの。
 2 人間の煩悩88を表したもの。
 3 米の字を分解して八十八としたもの。
 4 常住在世の35仏と過去の53仏を合計したもの。
 5 欲界32、色界28、無色界28を合計したもの。
 6 弘法大師が唐からお釈迦様の遺跡八塔の土を持ち帰り10に
   分け元の8つの土を合計したもの。
 7 6項の八塔の土を重ね合わせたもの。

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衛門三郎と弘法大師